
ハリウッド映画における同性愛の表現の軌跡をたどったドキュメンタリー『セルロイド・クローゼット』(1995)デジタルリ・マスター版上映後に、神戸大学大学院国際文化学研究科・学術研究員のストキンジェル・アルノーさんによるトークを開催しました。
クイア映画の研究をされているアルノーさん。前回のアラン・ギロディ監督のトークと同様、まず「ゲイ」「レズビアン」と「クイア」の違い/定義について解説いただきました(「ゲイ」「レズビアン」が男性または女性同士の性的関係を表すのに対し、「クイア」はLGBT≒多様な性的指向を表すのに加え、「奇妙な」「普通でない」という語源から「社会の規範から外れた人」を指す)。
続いて、1981年に同名の本を発表した原作者のヴィト・ルッソについて、作家・映画評論家であり自身も同性愛者でアクティビストであったこと、1990年にエイズで亡くなったことなどを紹介いただきました。
原作はクイアな人の芸術の書であり、ルッソ以前にもクイア映画の分析はあったが、アクティビズムに基づきステレオタイプな表象を包括的かつ批判的に論じたのはルッソが始めてだそうです。
映画はインタビューと関連映像で構成されるオーソドックスな形式ですが、原作も多くの作品を引用し、約200人の関係者への聞き取りからハリウッドにおける同性愛者の表象の変遷を描いています。
続いて原作と映画の違いについて、
・原作は1981年で、ルッソの原著ではエイズ危機が与えた影響で締めくくられており、著者自身の病もあり悲観的に終わっている(同性愛者の表象のネガティブな面に焦点を当てている)
・映画は1995年で性的マイノリティを容認する意識も高まっており、少数者としてのリスクの改善の兆しがみられる。ニュー・クイア・シネマ(1990年代初頭にアメリカのインディペンデント映画界で起こったクイアをテーマにした映画制作のムーブメント)の台頭などもあり、政治的視点はありながらも表現のニュアンスは多様で、さまざまな関係者へのインタビューにより異なる意見をそのまま提示している
といった指摘がありました。
そしてここから、アルノーさんから3つの問いかけが投げかけられ、観客とのディスカッションとなりました。
- 登場人物に古典的なイメージを結びつけるステレオタイプ。映画では女性的な男性シシーと男性的な女性トムボーイが描かれ、それは画一的なイメージを植え付けるという負の側面もあるが、その存在を可視化することにもつながった。なぜハリウッドはそのようなステレオタイプを描いたのか?また、シシーとトムボーイの受け止められ方が異なるのはなぜ?
参加者からは、「そもそもトムボーイは『モロッコ』のディートリッヒなど美しくかっこいい女優が演じている。シシーをボガートやゲーブルが演じていたらまた印象が違うのでは。キャスティング時点で両者の見せ方が違っている」「男性同士は想像したくないが、女性同士はきれいだからよい、というイメージがあった。商業的に見たくないものを映しても客が入らないからでは」といった意見が出ました。
アルノーさんからは「クイアな人のためのアドボカシーがない状況で、わかりやすく伝えるために性格が単純化された。娯楽として簡単にわかるように」「(男性観客を優先していたので)男性は男同士の絡みを見たくない。女性同士の場合は男性の欲望の対象になり得る」といったコメントがありました。
- 宗教団体などからの批判により、「不道徳な」表現を規制する「ヘイズ・コード」が適用されるようになった後、映画会社は作中に暗号的に同性愛的表現を忍ばせる工夫をした。そのような暗号化と、それらを「読み解く」という観客の視聴習慣はどう発展したか。また、現代の私たちはそこにどんな表現を読み取るか?
参加者からは「暗号化というと自分がセクシャルマイノリティだと自覚している人があえて作り込む、というイメージだが、30~40年代には自覚していない人もいたのでは。その場合、無意識にそういう暗号が入ってしまい、観客側が意識的に読み取った、という事もあるのか」という意見が出ました。アルノーさんは「本人が自覚していなくても、その人が作る世界観はセクシャリティとつながるので、例えば木下恵介監督なら足が悪い人が出てくるのがクイアの表象につながっているという指摘があったり」「一方で、遠回しな表現が観客にどこまで届くか。それは暗号を解くキーをもっているか=どのように教育されたか、生きている環境にもよる」「『マルタの鷹』でガーデニアの香りでゲイとわかる、というのはなかなか気づけない。ゲイコミュニティなどで、お互いに感じたことを後から考察する中で解釈が生まれたのでは」と話されていました。
- 本作の意義、普遍性について。ハリウッド映画はスタジオシステムの中で保存されてきたからこそ、本作のような分析も可能になっている。では他の文化や国で同じような分析ができるか?例えば日本では?また、商業映画ではなく、ホームムービーのような表に出ていない映像にクイアの記憶は残されているか?
アルノーさんから『薔薇の葬列』などの名前が挙がる中、参加者から「木下恵介監督は同性愛者と言われており、『惜春鳥』などは男性の友情を超えた美しい関係性を描くシーンが見られる」という意見が出ました。アルノーさんからは、「その通りで、細かい演出で、例えば男同士実際には触れないけれど、二人の歩く影がつながっているシーンがある」と解説いただきました。なお、2020年には早稲田大学で邦画における同性愛、クイアに関する表象を紐解いた久保豊さんによる「Inside/Out ─映像文化とLGBTQ+」という展覧会が開かれたそうです。
https://enpaku.w.waseda.jp/ex/10407/
「日本では戦前戦後辺りでセクシュアリティの描写はアンダーグラウンドになる。その後ロマンポルノなどでいろんなステレオタイプが出てきたり、『網走番外地』にも男同士の関係性が見られたり。90年代はよりオープンになった印象」「ハリウッドの作品は記録に残っているが、邦画は保管されていない作品もあり、ホームムービーになるとなおさら(保管状態はよくない)。映像メディアではクイアな人たちにも歴史がある事を確認でき、孤独から解放される機会になり得る」と締めくくられました。















